
外国為替相場の変動をまったく認めないか、または変動の幅を狭く限定した制度にもとづく為替相場をいいます。 リサイクルトナーとなった神聖ローマ帝国では、ドイツ諸侯による複雑な権力闘争が起こる一方、1257年の国王選挙で帝国外から2人の次期皇帝候補者が推された。1人はイングランド王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャード、もう1人はカスティーリャ王アルフォンソ10世(賢王)である。このうち、アルフォンソ10世は生母ベアトリスがコンラート4世の曽祖父フリードリヒ1世の孫娘(フリードリヒ1世の末子・ドイツ王フィリップの娘)に当たるという血縁関係から、次期皇帝候補としては特に有力であったが、ローマ教皇の強硬な反対と国内事情から、国を離れてドイツに駆けつけることができず、これは実現せずして終わった。また、リチャードはドイツを積極的に訪問し、ドイツ諸侯に積極的に金銀をばら撒くことで支持を得ようとしたが、1264年のシモン・ド・モンフォールとの戦いで、兄王と共に捕虜となるなどの醜態を晒したため、諸侯から見放されて皇帝になることはできなかった。 ヒューマン、ボヘミア王としてドイツで大勢力を誇るオタカル2世(大王)が帝位獲得を目指したが、ドイツ諸侯やローマ教皇はオタカル2世のような強力な皇帝の出現を望まなかった。しかし、長引く空位は帝国内の荒廃を招き、またシチリア王シャルル1世は甥のフランス王フィリップ3世を帝位につけ、ヨーロッパをフランス勢力でまとめる野望を抱いていた。そのため、諸侯や教皇は1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世を神聖ローマ帝国の君主として擁立したのである。これによって大空位時代は終わりを告げた。ただし、ルドルフ1世は正式にはドイツ王であり、ローマで皇帝としての戴冠を受けることはできなかった。 リサイクルショップ 神戸が帝国君主として諸侯から擁立されたのは、弱小勢力のため傀儡として扱いやすいと諸侯から思われたことの他に、ルドルフ1世の祖父・ハプスブルク伯ルドルフ2世がホーエンシュタウフェン家の一族の娘アグネス・フォン・シュタウフェンと結婚していて、その血を引いていたこと、ルドルフ1世の名付け親がフリードリヒ2世であり、フリードリヒ2世とコンラート4世の時代にルドルフ1世が皇帝に忠実に仕えていたのが認められてのことでもあった。しかし、ルドルフ1世は諸侯の思惑に反して優秀な人物であり、1278年にはオタカル2世をマルヒフェルトの戦いで敗死させ、現オーストリアの諸侯領を獲得するなどして勢力を伸張させるとともに、帝国の安定化に努めた。言わば、この大空位時代はハプスブルク家がドイツに進出する契機となったのである。 ただし、これによってハプスブルク家が帝位を独占することにはならず、ナッサウ家、ルクセンブルク家といった(その時点での)弱小勢力の皇帝擁立というパターンがなおも続いた。 南北戦争後、アメリカ合衆国は北部を中心とする一つの大きな国民経済のまとまりが確保された。1869年、オマハとサクラメントを結ぶ最初の大陸横断鉄道が開通し、ヨーロッパからさらに多数の移民をひきつけた。こうした資本主義の急速な成長の下、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(スコットランド出身)、石油王ジョン・ロックフェラー、鉱山王グッゲンハイムの父マイアー・グッゲンハイム(スイス出身のユダヤ系ドイツ人)など名立たる富豪が輩出した。しかし、政治は腐敗し、国家の庇護を受けた資本家はさらに富を蓄え、下層の人々は貧困に喘いだ。金ぴか時代とは、浮付いた好況と拝金主義を皮肉り、こうした経済の急成長と共に現れた政治経済の腐敗や不正を批判してトウェインが命名した時代名称である。 カタログギフト、副大統領から昇格した南部人のジョンソン大統領は共和党選出ではあったものの元来は民主党出身[1]だったため、南部の白人に特赦を与えるなど南部に対し好意的かつ寛大にふるまった。南部の旧指導者らは政治活動を再開し、かつての「奴隷取締り法」に代わって「黒人取締り法」を制定するなど、従来の支配体制は維持された。これに対して「何のための南北戦争だったのか」と北部の世論が激昂、とくに共和党急進派とはウマが合わず対立した。ついには大統領の弾劾裁判が行われ、ジョンソンは1票差で無罪となったものの、その影響力を完全に失った。南部白人は根深い差別心からクー・クラックス・クラン(KKK)などによるテロ活動をさかんにおこなった。 グラントは南北戦争時の北軍の名将として知られ、1868年5月のシカゴでの共和党全国大会で満場一致で大統領候補に選ばれ、大統領選でも大勝した。しかし、大統領としてのかれは、汚職とスキャンダルに常に悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に収得したとされるウイスキー汚職事件が有名である。個人補佐官オービル・E・バブコックは不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦によって有罪判決を回避した。この事件ののち陸軍省長官ウィリアム・E・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査の結果明らかとなった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得た証拠はないが、彼は犯罪者に対する厳しい姿勢をとらず、彼らの有罪が確定した後さえ、強く反応しなかった。 無能で腐敗したグラント政権の間に共和党の人気は落ち、共和党は民主党と妥協(連邦軍の南部撤退、南部人の閣僚入り、南部の鉄道に北部資本を導入)するまでにいたった。南部民主党の新しい指導者らは戦前とは違って北部共和党に近い考え方をもち、結局、北部と南部の白人は黒人の犠牲において和解することになった。人種問題に関しては、政府は関知せずという自由放任の方針がとられた。解放後の黒人には土地とラバが与えられるという期待が広まっていたが、無一文で放り出された多数の元奴隷らはプランテーションを去って放浪するか、南部にとどまってプランテーションの農業労働者か小作人になるよりほかに道がなかった。 急成長をとげたアメリカ資本主義は、1880年代に独占資本の形成が進み、工業生産は1894年には世界一となるまでに発展した。一代で巨富を築くといったアメリカンドリーム[2]もみられたが、その裏では、各種の企業合同、特にトラストが成立し、大資本家が政府と結び、汚職や政治への介入が続くなど独占資本の弊害があらわになってきた。1882年にスタンダード石油トラストを形成し、巨大な利益を消費者に還元せず高価格で販売し続けたロックフェラーのスタンダード・オイルのビジネス手法は広く厳しく批評された。当時の風刺画には、腹に「鉄鋼トラスト」「銅トラスト」「石油トラスト」「砂糖トラスト」と書かれた金満家の巨体がならぶ傍聴席の横で小さくなった議員たちを描いた絵、「自由の女神像」の姿をして、右手に地球、左手に石油ランプをかかげて「独占」の樽の上にまたがったロックフェラーの絵などがある。当時大資本家は、泥棒男爵(Robber baron)という言葉で表現された。 この時代にマンハッタンと対岸のブルックリンを結ぶ当時世界最長のニューヨーク・ブルックリン橋が完成し、アメリカの富と産業の実力を世界に誇示し、ニューヨークを世界的都市として印象づけた。急速な経済発展にともなって、アメリカ人の道徳観が大きく変わり、強烈な事業欲と物欲が正当化されることとなった。文化および社会的リーダーの中心地も、ボストン(知識人の街)から、ニューヨーク(事業家の街)へと移った。


